牧島 功 前幹事長
創生期。
戦後の荒廃から立ち直りつつある日本。
昭和39年開催のオリンピックは、平和の象徴であると同時に復興の旗印でもあった。経済成長とともに芸術、文化、娯楽にも目覚めた時代だった。
母校明治大学が誇るマンドリン倶楽部は、故古賀政男先生の指導のもと高い音楽力とともに学生故に愛される存在でもあった。
東京六大学を中心にエネルギーの核となる地域における校友、学友活動が台頭し横須賀はその代表的なものになっていた。東京への通学可能な限界都市でもあり、地元で活動が容認される風土があった。六大学のみならず中央、東海、東洋、神奈川、関東といった組織も覇を競うような活動が始動していた。
明治大学の校友組織は小さなものであったが、学生の意気高く大きな組織へと育っていった。学生会を支えた最大のポイントは、マンドリン倶楽部の存在であったことは論を待たない。倶楽部のコンサートは全国どこの地域でも盛況で、いわば活性化の切り札であった。横須賀も例外ではなく、第1~6回は汐入駅近くの(現メルキュールホテル、芸術劇場)市民会館で開催された。同会館は木造2階建て、約300席の映画館的劇場だった。昼夜2回公演で常に満席状態。収益は学生会活動として活用され、この伝統は今日まで継続されていた。
マンドリンコンサートだけでなく市民すべての芸術、芸能、音楽ベントは活発化し、定員に限りある市民会館は利用価値が急速に下がっていった。、新しい近代的大型施設の建設機運が高まったのが昭和40年代である。上町深田台の旧病院用地が開放され、ここに文化会館が建築されることに。鉄筋打ち放し工法による1,500名収容の当時としては大劇場が誕生することになった。
第7回コンサートは文化会館開設の1970年(昭45)に開催された。マンドリンコンサートは、横須賀音楽イベントとしては今もなお最長不倒の記録を更新し続けている。横須賀の秋の訪れを告げるコンサートとして名物化していったが、内容は次第に大きく変化せざるを得なくなっていった。
TVが普及し、歌番組やコンサート、ライブが大衆動員の中核となっていった。音楽界もフォーク、ロック、GS、ニューミュージックといったジャンルが飛躍。流行歌、演歌、歌謡曲の守備範囲が変化を遂げるに至っていった。マンドリンコンサートも例外ではなく、学生の演奏だけでは物足りない環境が生まれ、ゲスト出演やコラボレーションの波が避けられなくなった。宿願の横須賀支部昇格となった第11回コンサートからはゲスト招聘が余儀なくされ、今日までその傾向は続いている。というより、ゲストの人気によって入場者が増減する時代となっていった。
ゲストによってはチケットの完売(夏川りみ、秋川雅史)が実現したり、販売に苦労したり、本来のあるべきコンサート像が変形していったのは社会変動が反映したものであった。
94年(平6)芸術劇場が横須賀プリンスホテルと合築で建設され、開場した。人口40万人都市では考えられないオペラハウスで、2,000名収容が可能に。同年からコンサート会場を同劇場となり、今日まで1年も欠かすことなく開催してきた。
ただ、娯楽の多様性が進化するのと同時に人々の生活環境も激変。変化は明治大学横須賀学生会(10年ほど前、学生会は全国で皆無、横須賀のみ継続)にも及び、会員が少数となり学生会が主導するコンサート運営は困難となってきた。そして平成最後の昨30年、59回をもって学生会主導の歴史にピリオドを打つことになった。
開催が危ぶまれる中、OBである校友会横須賀地域支部が60回記念コンサートを運営することが決定した。
マンドリンの美しい調べと学生が織りなす純粋なエネルギーが消滅することのないよう、願うばかりである。
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